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[十三がころげ落ちた最初に彼を支えようとしたその場所に座り込み、ただ呆然と目を見開いて居た。
声を上げ様として、喉から出たのはヒューと言う笛を鳴らす様な奇妙な音だげ。]
[天賀谷氏の“遺骸”に顔を埋めるように懸命に臓腑と格闘していた私の眼鏡には彼の鮮血が粘りついていた。
部屋の中が赤く滲む。
ごしごしと白衣の裾で血潮を拭ったが、レンズの汚れが広がっただけだった。]
さつき君、動顛していることと思うが、君に聞くほかないんだ。
[さつきを庇い、部屋から遠ざけようとする翠の向こうにいるさつきに尚も追い縋るように言葉をかける。]
どうするかね?
天賀谷さんをこのまま放っておいたら、本当に“死んで”しまうぞ。
[藤峰に答える。ただし最後の一言は声には出さなかった]
ああ、こいつが口をきいたら何をしゃべってくれるのかな。『少なくとも俺よりよほど頭がいいに違いない』
[怪我の功名というべきか。水をかけられて身体がやけにさっぱりとした。それが物理的なものか、呪術的なものなのかは分からないが、望月はふと気づく]
……刀が、軽くなった……?
[考えている間に藤峰は一言告げて階上へ上がっていった]
あ、待てよ。
[後を追いかけた]
―――……それで、合っている筈です。
さつき様が、一番近しい方、で。
[声を極力押さえたため、
常より低く響いただろうか。
と、二品が奥で呆然と座り込んでいるのを見て翠は声を上げた。]
仁科さん!
[仁科も、此の惨状を目の当たりにしたのだろうか?
翠の瞳が揺れた。]
仁科さん、
しっかりして……!
此処に居てはいけない、見てはいけません。
[追い縋るような枚坂の声が重なる]
[人の声がする。それに、微かだけれど、異様な臭いが感じられた]
おい、藤峰さん。
[天賀谷の部屋を知らぬ望月は、藤峰の姿を見失ってきょろきょろする]
――三階/十三の部屋――
[扉を開けた瞬間、さつきの視界に飛び込んできたのは九穴から血液を噴き上げる十三の姿であった。否、其れが十三だとは――或いは其れがひとの姿であるとは、さつきには一瞥で見て取る事が出来なかった。まるで公園や駅前の広場にある噴水のようだと、場違いに過ぎた思考が脳裏を走ったのだ。
だが其れは紛れも無く、十三であるとさつきは頭の中の何処かで理解していた。或いはいつかこの様のな日が来ると、識っていたのかも知れぬ。だが――所詮はやはり、未だ十六の娘でしかない。さつきは言葉も失った様子で、開け放たれたままの扉枠にもたれかかるように、身を傾けさせた]
[目の前の惨状さえも受け入れがたく感じているらしい少女の様子は無理からぬことだったが、私は応えを求めずにはいられなかった。一刻を争うのだ。]
さつきくん、大丈夫さ。
吃驚するようなことじゃないんだ。
これはまだ、大丈夫だ。
もっとおぞましいことにだってなり得るんだから。
[その言葉が慰めらしきものとなっているかどうかはわからなかったが、ただ焦りだけが私を突き動かしていた。
未だ聢りと定まった様子のない彼女に向けてよろよろと歩み出す。]
――三階/十三の部屋――
[何とか正気に返そうと言葉をつくして呼びかける枚坂の言葉が届いたのか――さつきは操り人形のようにゆらりと顔を上げる。だが矢張り、瞳は茫洋としたままだった]
せん……せ……?
こーねる、せん……せ……や、ない……のん……?
…翠さん。
[首を曲げすぎた所為で、後ろ側に帽子が落ちた。
重厚なカーテンが半分閉じた暗い室内では仁科の金目は目立たない。翠は兎も角、他の者ははじめてみるのだろうが。だが、十三の成れの果ての姿に誰もが心を奪われ、仁科の顔など誰も見ないだろう。]
アァ、先生様は何をおっしゃっているんで?
[じっと、無理矢理内臓が詰め込まれ行く十三と血塗れの眼鏡を掛けた枚坂を交互にじっと見つめる。]
さつき様……ッ
[支えるように抱きとめ、
そのまま自身も地に膝を着いた。
仁科が僅かに視線を動かしたのが見えた。]
仁科さん……っ
枚坂さん、仁科さんを、
[翠は自分の声が上擦ったのに気付いて
口元を押さえた。
落ち着け、と小さく呟く。
さつきが、何処か心此処に在らずの笑みを浮かべ、手を差し伸べていた。]
さつき君、君はどうしたいんだい?
叔父さんを愛しているかい?
君が叔父さんをこんな姿のまま放っておけないと思うなら……私にもできることがあるんだが。
あ、望月様!
旦那様のお部屋でしたら、こちらでございま……
え?
[望月も階段を上がって来たようで、万次郎は望月に声を張り上げようとした後でそれを見た]
そんな、まさか…
……はは。
[むせ返るような匂いで、烈し過ぎる鮮やかさで目に飛び込んでくるそれは、血だとわかる。
だがこの全て、天賀谷の体から流れ出たものだとしたら――…そこから先が考えられない。
動かない天賀谷を前にして佇む面々にもまた、所々血に塗れた者が居る]
私は……君の先生では……
[少女の瞳は現実から遊離しているように思えた。これ以上問うても無駄なのだろうか。]
大丈夫……。
[気持ちを安らがせるように、さつきの手をそっととった]
――三階/十三の部屋――
[「本当に“死んで”しまうぞ」――さつきの頭の中の正常な部分もまた、枚坂の言葉の真意を読み取れぬように思考の経路が途絶していた]
『本当に……?
あの姿は……どうみても。
最早、精気も抜け果てた無残ななきがらだというのに……』
[其の想いがさつきの声帯を震わせることは無く、代わりに彼女の口元に不可思議な笑みを浮かべさせるだけであった]
[呼びかけてくれる藤峰の声にほっとして、広すぎる邸内を歩いていく。何もまだ知らずに]
ああ、ありがとう。
[警告するかのように再びかたかた、と鍔が鳴るのに気づきもしない]
天賀谷さんは発作でも起こしたのか……。
[廊下の角を曲がって、目にしたものは広がる朱色。言葉が止まる]
[これだけの人間が居て、天賀谷をソファだかベッドだかに運ばずに、いつまでも床に伏した姿のままでいさせていることも、天賀谷の体からはみ出す何かも……どこか現実感を伴わない。
まるで何かの冗談のようだった。
滑稽を感じて笑った自分の声が乾いているなと人事のように思ってから、ふらつく足が万次郎の体を後方にさがらせた。
壁に背がついてしまいこれ以上はさがれぬと知ってからやっと、他の者と等しく叫び声をあげる。
衝撃の大きい客や同僚を慮ろうとする余裕は、そこに無かった。
さつきを安らがせようと、その手を取る枚坂に対し]
…枚坂先生、今この時に何をしておいでです?
そんな場合と思ってらっしゃるので?
さつき様以上に、お加減の悪い旦那様が今床で…
そうですとも、先生ならばできることは数限りなくおありでしょうとも!
早く旦那様を助けてください!!
[異様な事が1つ有った。
身体に入っている血液の量は一定で、天賀谷は死亡時にその全てを内臓と共に噴出させてしまった様に見えた。実際に血液は止まった。
にも関わらず、十三の身体から流出し絨毯に広がった血液が、じわりじわり広がり*面積を増しはじめているのだ*。]
何を……って?
[仁科からの問いかけに、当惑したような呟きを漏らした。]
天賀谷さんは確かに死んでしまっているように見えるかもしれない。
だが、このまま放っておいたらもっと恐ろしいことになる。
その躰は腐乱し朽ち果てていく。
そうなったら本当に終わりだ。
もう、取り返しがつかない――。
[杏と呼ばれた女中は、まだ童女と呼んでも差し支えないほどの幼さを残している。
そのような少女が自分に無言でかしづいている光景に、下卑た欲望が沸々と沸き上がるのを覚え、]
……杏くん、と言いましたね?
随分と愛らしいのに、このように女中風情に身をやつすのは勿体無い。
どうです、今度……
[そう言いながら手を取ろうとした矢先、ドアの外から翠の呼び声が響く。
それが耳に入るや否や、少女は一礼だにせず主の元へと駆け出した]
……ちっ、全くなんだというのだ?
叔父の死相でも見て倒れたのか?
これだから小娘は……
[そう独りごちながら、残りの紅茶を飲み干した]
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