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──……っアァアア!
[全裸のまま、濡れた髪を掻きむしり、目を見開いて悲鳴を上げたが。
──…呻く様な僅かな声にしか成らない。]
…旦那様は死ぬ。
死ぬ、死ぬ、死ぬのだ。
怖い、怖い、あたしは怖い。怖い。
アァ、アアア、どうすれば良いンだ──っ。
[メイドに紅茶と苺ジャムをもらい、ロシアンティーをすする。見知った藤峰や翠の姿は見えない。]
……ま、天賀屋氏があんなことになったから、そちらに追われてるんだろうな。
にしても、この状況は……。
―3F天賀谷自室前―
[飲み物と果物を幾つか。
それを白磁器の器にと共に部屋へ運んだ時も、天賀谷は時折低く笑みを漏らすだけであった。]
……
[翠は同僚の使用人と顔を見合わせると、
静かに扉を閉じた。]
―3F→2Fへ―
[(中止になった)晩餐会時にはろくすっぽ見られなかった水鏡に目をやる。]
───そもそもあれは、屍鬼ってやつを見つけ出すためのものらしい。と言っても見つけ出すことのできる者は限られてるらしいが。
そういえば、首を切らないとなんてことも天賀谷氏は言ってたようだが
このご時勢、そんな事のできるやつがいるもんかね?
強いて言うなら───
[関東軍に在籍していたと思われる男。名は雲井、と言っただろうか。]
―庭―
七十六、七十七、七十八……
[刀の素振りを延々繰り返している。全身に汗ばんで、背中などぐっしょりと霧でも吹いたかのように濡れている。
それでも望月は素振りをやめようとしない]
『ああ、そうか』
[ともすれば湧き上がる自嘲の笑み]
『もう、このごろの人間は山田浅右衛門など知らないのだな』
[昨夜の事を思い出す。水を差しだしてくれた夜桜が、望月に問いかけた言葉だ>>164]
「どちらかの剣豪の血を引いておられるのですか?」
[それ以上のことを話す前に、彼女の意識は仁科に向けられてしまった]
『そうだな。斬首刑は明治の昔に廃止された。八代にわたって斬首を司ってきた山田浅右衛門の一族など、遠い昔の物語か』
[雑念を振り払おうと素振りをすればするほど、思いが募っていく]
『骨董を扱う狭い世間ならいざ知らず、時代はもはや人の首を切り続けた武士の一門など忘れているだろう。
……だが、天賀谷は忘れていなかった』
[手を止めて空を仰いだ]
―2Fの廊下で―
「ねえ、そう謂えば」
うん、何?
「鳶口君、来てないんだって。
藤峰さんが謂ってた」
[何の気のない同僚のいつもの他愛もない雑談。
けれども、それは翠に1つの確信を引き起こした。
――出られない。朝のように。
――入れない。外からは。
此処は、もう。]
「翠?……翠?」
え、あ、ああ。ごめんね。
ちょっと、考え事。
[いぶかしむ同僚を微笑みで誤魔化して、
翠は昨日の騒ぎの渦中にあった水盆へと足を向けた。]
[ぶつぶつと思考を垂れ流しつづける。おそらく、今の状態では頭の中でのみ思考をまとめようとするよりましな気がして。]
───とはいっても、雲井一人だけにそういう事を任せてもおけまい。となるとあるいはその手の荒事のできそうな人間が他にも?
……ヒューさん、もしかして、俺をここに来させたのは荒事をやらせるつもりだったってのかい?
[其処に在るのは異形の空。日は東に、月は西に。森を包む霧は揺らぎもせず重く白い。
詳しいというわけではないが、屍鬼の伝承は望月も知っている]
首を落とすか、心臓を抉らねば死ねぬモノ。
首を落とし続けて八代を重ねた山田浅右衛門の一族。
[屍鬼という存在そのものが、まるで望月を待っていたかのように思えたのは、己への買いかぶりなのだろうか]
……俺が首を落としてやれば、迷わずに逝けるのだろうか。
―水鏡前―
[水盆は圧倒的存在感を持って其処にある。]
……お前は何を知っているの?
旦那様を変えたのは、お前?
[器物が答えるはずもない。
鏡の様な水面を覗き込めば、自分が自分を見据えていた。]
お前を使う者が居るのかしらね……。
あの昔話のように。
[それでも、翠は話しかけるように独白を続けた。
それは昔話だ。
刀の部屋の記憶と共に、
口伝を喜悦さえ浮かべて語る、
天賀谷の声が甦る。]
───あんな真似はもう金輪際したくなかったんだけどな。あの頃ならともかく。
[なんて事だと頭を抱えて転がりまわりたい気分だ。こうなるとわかっていたならば、煙草を今の倍以上持って来ていただろうに。
再度水鏡のほうに目を走らせる。翠の姿。彼女はこちらを向いてはいなかったが、つい会釈してしまった。]
[影を見る者。
魂を見る者。
影を封じる者。
狂える魂の持ち主。
そして屍鬼。
異界と現世の狭間に落ち込んだ場所は鎖されてしまう。]
……。
[仁科とは未だ顔を合わせていないけれど、同僚が夜桜と共に居たよと教えてくれた。
外に居たということは、仁科も知っているのだろうか。鎖された此の屋敷の今を。]
『会えたら、聞いてみよう』
[頷いて、職務に戻ろうと顔を上げた翠の眼に、
会釈をする由良の姿が映った。]
由良様、昨晩はありがとうございました。
[丁寧にお辞儀を返した。]
―2F食堂─
[大河原の申し出を断り、食堂へ。
元軍人。そのような人間に印綬をぶら下げて
どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。]
…………。
[見知った顔を見つける。戸口に立ったまま無言で鏡を見る。]
[天賀谷と出会ったのは、亡夫の大河原伯爵が─まだ華族制度は廃止されてはいなかった─目黒の屋敷を手放さざるを得なくなった頃であった。
碧子の持つコネを最大限に駆使した結果、小さいがそれなりの家を手に入れ、没落していった大多数の貴族─斜陽族などと呼ばれるようになっていた─に比べて何とか相応の暮らしを保つことが出来たが、それでも財産の大部分を処分しなければならなかったのは言うまでもない。
そんな中で、知人の一人が天賀谷を紹介してくれたのである。]
[礼を言われるほどの大層な事はしたつもりはなく、翠の謂いに苦笑しつつ言葉を返す]
いや、大した事は。
……あの、つかぬ事を伺いますけど、このお屋敷では、麻なんかを植えたりはして……ないですね。すみません。
[気がかりをつい聞いてしまったものの、そんな事はあるまい、と言った尻から打ち消してしまう。
第一、「あるが、どうするのだ」と聞かれた場合の返事に困るではないか]
[いろいろな型を試みて素振りを続けたことで、気持ちがようやく落ち着いた。汗を流して、己が少しだけ清くなったような心地がある]
……戻るか。
[先刻自分を散々迷わせた森に一瞥をくれて、屋敷に向かう]
→屋敷へ
………君にそんな嗜みがあったとは、知らなかったよ。
[思わず戸口から声をかける。]
戦地での恐怖を紛らわすため、あるいは頭を離れぬ
悪夢、纏わりつく血の感覚を忘れるため。
そんな理由でMELOW,MELOWと喚く連中を知っているが。
[溜息混じりに。]
君もそのクチかね?
いいえ、
由良様と枚坂様のお陰で
旦那様も大事なかったのですから……。
[と、続いた由良の問いに翠は首を傾げた。]
―――麻……ですか?
どうでしょう、私は存じ上げません。
強い植物ですから、
探せば生えているかもしれませんけれど。
[記憶を掘り起こしながら答える。
あれは育つのが早いから手入れが大変だと庭師がぼやいていた様な覚えがあった。]
……ぁ。
[たたずむ人影―江原様だろう―に気付き、翠はまたそちらを向き直り礼をした。]
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