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── 回 想 ──
[あの日。確か自分は父親の機嫌がすこぶる悪く、散々自分に当り散らしていたのだった。特に酷く蹴られ殴られたその日は、よく記憶に残っている。
逃げるように自室へ隠れ、震えていた。
その後、下から聞こえてきた団欒の声、まるで自分を殺す相談かのように聞こえてもいた。
眠れば忘れられる。そう、眠ってしまえばいい。
しかし眠れば明日が来る。明日が来ればまた─。
記憶はここで不自然に止まっていた]
[青年を寝室のベッドに寝かせて1階に降りる。その時初めて、彼は書斎の扉を一時的に解放したままにしていたことに気付き、慌てて扉を閉めた。]
[下半身を纏う服を取り換えると、キッチンへと向かう。相変わらず、冷蔵庫の中身は死んで居るようだ。]
……仕方ねぇなあ……
[溜め息をつきながら、食器棚から水差しとコップを取り出し、水道の水をその中に注いだ。味見をする限りでは、水道水は生きているようだ。]
[2階に戻り、水で満たされたコップをハーヴェイに差し出す。]
………水。
冷たくねぇのは勘弁な。
[水たまりの水を跳ね上げないように、ゆるやかな運転でソフィーの側に車を停める。]
うちに来てくれるところだったのか。
奇遇だね。
[そう言って、微笑んだ。笑顔は、常よりは曇りを帯びてしまっていたかもしれなかったが。
「どうして」の問いかけに今日はソフィーの誕生日だから、と云った。
彼女をもてなしたかったが、アトリエのリビングは荒れ放題になっていたことを思い出す。]
食事でも奢ろうか?
今だとアンゼリカくらいしか開いてないだろうけれど。
ひとまず、乗らないか?
荷物もあるようだし。
[助手席の扉を開いた]
[ソフィーはなにより真摯に顧客の言葉に耳を傾けてくれた。人見知りなところがあったが、それだけに職人にしばしばありがちな頑なさや客を拒む高踏さはとは無縁だったように思う。
よくシャーロットの衣装を依頼することになったが、シャーロット自身も安心して自分の希望を話すことができた。
その年若さ故に技倆と経験そのものはイアンには及ばぬ部分もあっただろうが、職人の温かい気遣いがそこかしこに感じられる衣装はイアンのものとはまた別の意味で得難いものだった。
ソフィーの仕立てる衣装は、袖を通すと肌に寄り添うように柔らかに流れ、優しく着る者の躰を包んでくれた。着ることに心地よさと安らぎが感じられること。
それは、間違いなく彼女の優れた資質だった。
私が彼女の服とその店を愛していた理由に他ならない。]
[それはある種防御本能だったのかもしれない。
極めて辛いな思い出は脳は防衛する為に忘れてしまう。
これもその一種だったのだろうか。
ナサニエルを見た時、何故かこの日を思い出した。
あれだけ鮮明に覚えていたのに不自然に途切れていた妙な記憶]
[それだけに、ソフィーが一人大きな苦労を負っていたことには内心ひどく残念な気持ちがあった。
イアン、何故だ――
だがその問いかけの答えは、それまでは、彼自身やあるいはソフィーからは明確に引き出すことができないことでもあったのだった。]
…ありがとう。
[横になって大分顔色も戻ったのか、素直に水を受け取り、一口飲む。冷たくなくとも水分が体に入っていく瞬間はとても心地が良い。
そのまま、ナサニエルの顔へ視線を送る。
不躾だとは分かっていた。
ただ、彼に聞きたいことがあった。
それを知れば、あの曖昧な記憶もつながるのではないか。
何故かわからない。そう、思ったのだ]
あの……
[遠慮がちに、口を開いた]
[ネリーはまたぽつぽつと歩き出した。道路へ出ている分気が楽だからなのか、道に迷った時に比べれば格段に足取りはしっかりしている。]
もうすぐ街だわ…ここから近いのは…
[突然の邂逅に慌てて聞き流してしまったが、ドアが閉まり、腰を落ち着けると、ヒューバートの言った「誕生日だから」という言葉の意味がようやく理解出来た。]
──…あ、そういえば……誕生日、でしたね…。
[短時間に色々な事がありすぎて、忘れていた。
呆けたように呟いてしまってから、気まずさに苦笑する。]
ああ……
……衣装……
[ソフィーの言葉に、表情は纔かに曇った。シャーロットのものも依頼していたように思うからだ。]
お礼なんて、水くさい。
気にしないでいいさ。
[話が――という彼女に、ではうちにでも、と自宅へ招くことにした。リビングは散らかっていたが、隣の顧客が来訪した時のためのミーティングルームなら静かに話をすることができるだろう。
私はそれでいいかい? と問い、彼女が助手席に腰を降ろすのを確認すると車を出した]
………なんだ?
[ベッドの上に居る青年に声を掛けられ、ナサニエル不思議そうな顔をして応える。片手には、コップがひとつ。アンゼリカで煙草を嫌っていた青年の姿を思い出したナサニエルは、煙草を吸わない代わりに、チビチビと水を口に運んでいた。]
どうかしたのか?
[ナサニエルの不思議そうな顔につられて同じく不思議そうな顔をした。
確かこの人煙草吸っていたのに、とどうでもいいことを一瞬考えたのはやはり緊張してのことか]
…さっき…「ユーイン」と言ってました…よね?
ユーインを…兄を…知っているんですか…?
誕生日を忘れちゃダメだよ。
ソフィーは綺麗なんだから、祝ってデートに誘ってくれる人の一人や二人いるだろうに。
[そう云って笑う。
そんな軽口は辛うじて私の心を日常に繋ぎとめるために、今はむしろ必要なことですらあった]
確かに今は――
華やいだことなんて考えにくい状況だけどね
[暴風雨があってからずっと町を襲い続けた災厄に思いをはせ、僅かに口を噤んだ]
──ヒューバート車上──
[顔色が曇ったのを衣装の出来の事と勘違いし]
大丈夫ですよ。
工房にも水は入りましたが、衣装は無事でしたから。
[フォローするように言う。
気にするなと言われれば]
有難う御座います。
いつもご迷惑ばかりお掛けしてしまいますね……。
ところで、今日は、シャーロットはご自宅に?
[折角だからその場で袖を通して貰い、合わない所があれば直してしまおうと、何気ない調子で問いかけた。]
んー………
[時折コップの端を噛みながら、男はしばし考え込む。]
『さて。何と説明したらいいのやら………』
[椅子に座り、脚をブラブラとさせながら、ハーヴェイと名乗った青年の目をじぃっと見つめている。そして……]
ん。あれだ。
たまに合っていろいろ……話「とか」をする関係、かな。
[衣装のことは、彼女に誤解があって伝わっただろうか。軽く頭を振って、心配してないよというように笑う。
だが、続く言葉には答えあぐね、幾分逡巡した。]
…話…ですか…。
[兄は評判がよかった。この小さい町でそれなりに知られていた。
顔も頭も性格も全て及第点以上を取っていた兄と必ず比較された。
兄を知っている人間ならほぼ確実に弟の存在を知っている筈だった。
この男先程確かに俺を「誰だ」と言っていた]
…いえ。少し不思議に思って。
兄を知っていて俺を知らないという人には会ったことなかったし。
―移動→アトリエ―
[車での町内の移動は瞬く間だった。なにげない会話を二三言交わすうちに、自宅へと着いていた。]
その、ソフィー……
後でちゃんと話すが、うちでちょっとあって……ね…
散らかってるが、気にしないでくれ。
[荒れ果てたリビングをそう云って素通りし、奥のミーティングルームへとソフィーを案内した。
マーティンに紅茶と菓子を用意させた。]
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