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[……用意した衣服を身に付け、髪を整え、顔を作ると、また雅やかな大輪の花の装いを取り戻す。
それは、碧子がこよなく愛する黒の彩。
黒絹の、切替しのついたワンピースより出た手先と、その顔の他は、絹靴下や靴までも、*全て黒で覆われている。*]
翠さん。
人は鬼にも仏にもなれます。
全員が、鬼に成らずともよく、また仏に成らずとも佳いのです。
[弱いと謂う翠に*言いおき*]
―三階/天賀谷自室―
[さつきと碧子は、部屋を出て行ったようだ。
後から入ってきた枚坂の言葉に。]
私が、大河原さんの事を、良く知っているとは謂えないな。
元伯爵の生前にもお目に掛かった事はあったが……向こうは覚えていないかもしれん。
知り合ったのは、彼女が天賀谷の所に招待されるようになってからですよ。
いや。ああ謂う女(ひと)を、何もかも知っていると謂える者は居ないでしょうねえ。
そこが、彼女の魅力でも、あるんでしょう。
……そうだったのか。
雲井さん、貴方はなかなか恋に対して挑戦的なんだね。
[私の表情に苦笑が浮かぶ。]
彼女が天賀谷さんに招待されるようになってから、というと、天賀谷さんの彼女への関心を知りながらアプローチしたんだろうからね。
こう言っては失礼だが……
ひょっとすると、彼女に対してはさほどの拘泥はないのかな?
この屋敷にも、何人も魅力的な女性はいるが、とりわけ彼女だったことにはなにか理由があるんだろうか。
[一瞬、声に出して笑って。]
そりゃあね。
まあ、大河原さんは、私の事など、本気とは取っていやしないかもしれないが。
それで。
貴方は如何したんです?
一緒に閉じ込められた連中が、気に成り出したと?
いやいや、急に気になったわけでもないさ。
ほら、なれそめを聞いたこともあっただろう?
まあ、こんな時だからこそ誰が誰をどう思っているか知っておきたいと思う気持ちはあるけどね。
この、藤峰君のように、その人生の幕切れはあまりに唐突に訪れるんだから。
もし不意にその命を喪ったとして、手向けるものも思いつかない、というのはあまりに寂しいからね……。
[太刀の鍔元を握り、鯉口を切って立ち上がった。
ゆっくりと、刃を鞘引く。]
手向ける物……ね。
誰か死ぬ度に、そんな事が気になるとは、成程。
平和な時代になったものだ。
[鞘を床に放り、両手で太刀を構えた。]
いや、妙なことを聞いて済まないね。
気に障ったら失礼するよ。
詮索するのも野暮な話だった。
ああ、そうだ。
……ということは、碧子さんよりも天賀谷さんとの間柄の方が縁が濃かったんだろうか。
天賀谷さんはなにか、言ってたかな。
こんなことになってしまう前に……予感めいたことを。
貴方は……
なんのためにここに。
[それは、来海が問うたことと近かったのだろう。私はここへ来る前にそうしたやりとりがあることを知らずにいた。]
[重い音を立てて、刃の一部が床に喰い込んだ。]
矢張り、鍛錬を積んだ人の様には行かないもんだな……。
まあ。これでも目的は果たしたか。
そうですよ。枚坂さん。
それは死人だ。完璧な。
なら、首を切られる位、今更気にしないでしょうよ。
[枚坂に、冷たい視線を向けた。]
……妄念とは恐ろしいものだ。
君は戦場であまりにおぞましい様を見すぎたんじゃないか?
彼には安らかな眠りを向かえる権利と資格があっただろうに……
[ゆらりとたちあがる。瞳の奥で青白い火がともった。]
首を切られて、彼が痛みを感じるとでも?
もし化けて出るなら、もう一度私が切ってやりますよ。
情を乱されるとしたら、それは死んでる者じゃなく、生きてる者の方だ。
貴方は、この程度じゃ取り乱さない人だと思っていたんだがね。
倒れて、息をしなくなればそれで仕舞か!?
人にはその躰がある。
姿が残されている。
愛する人、
ゆかりのある者が――
いとおしむべきその形が。
無惨なかたちにされた彼の姿を――彼が知っている人が見ればどう思う!
“死ぬ”ということは、息をしなくなることじゃない。
心臓が止まることでもない。
生者がその者を“死者”だと切り捨てる時なんだ!
彼は、天賀谷さんを死なせたくないと思っていた。
その彼を惜しまなかったなら――
彼は浮かばれやしない。
[私は悲痛な声を絞り出す。]
いや……感情的になってすまなかった。
[息を吐き、じっと思いをかみしめた。]
だがね、ああ……
必要のないことだよ。
言ったように、彼は屍鬼じゃないんだ。
そして、屍鬼を滅ぼしてここから出るなら、彼が屍鬼として甦ることなんて考える必要などないことなのだから……ね。
貴方は理性的な判断をしている人のようだ。
それなら、私の言うことも理解してもらえるだろう?
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