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──夜は明けるのか。
[…ぽつりと。
明るくなり行く外の様子に少し安心したのか。天賀谷のあれは死相では無いか、殺し合うしか手段は無いのかそう言った言葉を紡ぐ事は無く。
部屋に入り、扉を閉じてこくりと頷いた。]
明けません。
人が屍鬼を滅するまでは。
[仁科の視線の先、こちらを向く夜桜の背の後ろ──窓硝子に映る太陽の光とは別に、ぽっかりと薄い血のような色が外の空に広がっている。森の樹木に隠れる、赫い血色の月の影響──。]
[それは何と奇ッ怪な眺めであったろう。]
[東の方から昇り来る陽の放つ黄金の矢と共に、在り得ぬ事に西つ方にもまだ、真っ赤に充血した眼球のような満月が、煌々と血に染んだ光を投げ掛けているのだった。
空全体が奇妙に輝いているようにも見えて。
雲は微動だにせず中天に張り付き、良く出来た舞台の書割の様。
漸う見れば、森に漂う霧さえ一向に消え去らぬでは無いか。
まさに人外魔境と呼ぶに相応しい、異様な光景であった。]
[碧子は、呆然と空を見上げたまま立ち尽くした。]
[ふと、そもそもの麓で聞いた若い男の話を──、十三が聞き屍鬼の存在を確信した話を、最初にすべきなのでは無いだろうかと、ぼんやりとした頭の片隅で思い付く。]
…──明けないのか。
[夜桜についていく。
用意され様としている熱い湯に視線を流した。
仁科は未だ帽子は被ったまま──だ。]
…紅い口唇は、女の口元だな。
[出て来た言葉は未だ取り留めも無い。]
[ボイラー室で温められた水は、各部屋へと供給される。それはここ、使用人の部屋であっても同じ事であった。仁科の部屋に温かい空気が流れ始める。]
明けません。
[仁科が繰り返す言葉に、夜桜も繰り返す。
仁科が被ったままの帽子を、そっと取り払う。はらりと、仁科の髪が揺れた。 取り留めない言葉には微笑みを。]
何だ、これは。何が起きている。
[傍から見る程ではないにせよ、彼女は動揺していた。
何にせよ、この様な異常事態は彼女の長い生…それとも非生と呼ぶのが相応しいか…の中ですら初めて体験するものであったからだ。]
[普段、人前で長時間帽子を取る事は無い。それは、明るい場所や広い場所で無防備に顔を晒すをあまり好まないからだ。仁科の右目は、生まれつき色素が薄いのか…金目なのだ。視力に問題は無いが只右目だけ。
其れを見られる事を好まないと言うのに、今は、ぼんやりとしている。頬笑まれて、笑みを返そうとした。]
…麓の村に屍鬼が出たと言う話を、直接一人の村人から聞いた。其の者の家に行くまで葬式が有った事すら気付かぬ平和さに見えたのに。
[雑誌に載っていた事は本当で、田舎の事だ。村ぐるみで隠蔽が有っても可笑しくは無いし、山荘の者は余所者なのだが。]
つい、昨日の話だ。それを旦那様にお知らせしたら……。
……何故気付かなかった。
[ギリギリと彼女は歯を噛み鳴らす。
その憤りに、昏く澱んだ闇の中に小さな火花が散る。]
[“こちら側”から眺めれば一目瞭然の事だった。]
[ぽっかりと白い貌が、他に何もないいちめんの闇の中に浮かんでいる。
あたかも汚泥から伸びて咲く蓮の花の様に、微かに燐光を放って滲む。
それを縁取る黒髪の、輪郭は闇に溶けて見えはしない。
その花の顔(かんばせ)に、今浮かんでいるのは燃え盛る憤怒であった。]
[ちらりと仁科の右目を見ただけで、
夜桜は余計な事は何も言わない。]
興奮して倒れてしまった──というところかしら。
[帽子を傍らに置き、仁科の上着の釦を外し始めた。]
因習が強い場所。
[ぽつり、言葉が散る]
もう、旦那様はあちら側のお人なのかねえ。
[あちら側と言うのは、直接的に屍鬼ではなく寧ろ狂気と言いたいらしい。
脱がされて行く事に抵抗はしない。目の前の熱い湯が、この状況で酷くまともで良い物に思えた。]
此の土地を選ばれた事も。
水鏡も。
招待状も。
全て何かの確信犯なのですかねえ……。
[捩れているのだ。途切れているのだ。
“こちら”も“あちら”も。]
[いや、“あちら”に在る天賀谷の屋敷全部が“こちら”の世界へと近付いて、中途半端に二つの世界の狭間に落ち込んでいる。
その所為で、“あちら”に置いた彼女の身体は閉じ込められて、“あちら”との接点を失ってしまった。]
……許さぬ、許さぬぞ。
[めろめろと、闇の中で白炎が散った。]
[目を閉じても心は穏やかにならない。窓の向うの赤い月が目蓋の裏に焼き付いた様に離れず、仁科の眼球を圧迫する。
襟元を締め付ける物も無いのに、未だ息苦しい。]
…………──。
人は簡単に彼岸へ逝けます。
[仁科の眞つ白い肌が露になる。]
ここに留まるは、人の絆と知性と──けれど、正気や常識なんて誰が保証してくれるのでしょうね。
[独り言のように言いながら、仁科の衣類をたたみ、籠に置いた。
既に湯は充分な温かさと水量だった。]
[あのような人間により引き起こされた惨事は多いであろう]
[夜桜は、仁科を残し浴室から出ようとする]
仁科さんは、どう思われます?
[問うた]
─天賀谷邸の庭─
[気が付けば、へたりと地面に座り込んでいた。
動揺がありありと残る顔で、後れ毛を直しつつ立ち上がる。
スカートの埃を払って、また空を仰ぎ見る。驚きからはまだ回復し切っていないものの、その瞳は十分に毅然としていた。]
…矢張り幻ではないのね。
[果たして空の様子は、彼女が先程見ていたのと寸毫の違いも無かった。]
―屋敷の庭・勝手口―
[髪をおろし、外へと出る。
何処か生温さを孕んだ風が頬を撫ぜる。
既に朝日が射していた、けれど。]
……月?
[煌々と紅く、満月。
血濡れの水晶玉のようだ。
望月という名の御客様だったな、とふとあの刀の煌きを思い出した。
空へと手を伸ばす。]
どうして……。
[翠は紅い月を追うように歩み出し―――
だがそれは叶わなかった。
浮遊感。
戻される。
届かない。]
天賀谷様にお会いしなければ。あの方はきっとこの原因をご存知の筈。
『それから、』
[と付け加えた。脳裏に浮かぶは昨夜“屍鬼”を知っている様な雲井の言葉。]
『雲井さんにも。もしも天賀谷様の意識がまだ戻っていなくてお話できなくても、あの方ならばきっと何か教えて下さるわ。』
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