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「……ええ、彼の作品の多くは安全な場所に保管できています。そのことは安心してください」
男は受話器を耳にあてながら、解れたブラウンの髪をそっと撫でつけた。男の目元には連日の疲労が蓄積されていたが、その声には倦怠の気配は混じってはいない。
電話の向こうからは、グラスハープの音色を思わせる涼しげで玲瓏とした声が聞こえてくる。年に似合わぬ気丈さで澱みのない応対をする彼女だったが、その澄んだ声はやはり愁いを帯びているように男には感じられた。
無理もない。あの陰惨な事件は未だに記憶に新しかった。それが風化するには、長い年月の積み重ねが必要だろう。
電話の先に居るその少女を励ますように、張りのある声が響く。
「大丈夫。なに一つ心配しないで。
私は、彼の代理人でした。生前、なにかあった時は必ず力になると約束しています。これからは、父親同然だと思って頼りにしてください」
ガソリンスタンドに、運転手がトレーラーを誘導している。男は、視線と指の動きで簡単に指示を与えた。
「ははは」 突然、男は少女の言葉に笑い声を漏らした。
「あいつから聞いてたんですか? やだなあ。
そうなんです。私もスポーツカーが好きだったんですけどね――」
男は愛車を振り返る。そこには正面中央に菱形のエンブレムの入った荘厳とした雰囲気と曲線の持つ軽やかさが一体となった品のいいサルーンが横たわっていた。ボルグヴァルドのイザベラ。
「今は、屋根のある4ドアの……ええ、“普通”の車に乗ってますよ。かみさんがうるさくってねえ……」
二年程前、子供が生まれたのを機会に手放したカルマンギアのカブリオレが一瞬男の脳裏を過ぎった。つい愚痴になっていることに気づき、いや、つまらないことを――と詫びる。
いつまでも子供じゃない。男は、新しい車も充分気に入っていた。不意討ちに過去を懐かしむ気持ちになったのは、あの男との瑞々しい学生時代の記憶を思い出したからだった。
今は――と男は思う。彼とは違うあり方で彼や彼の遺した娘に報いることができればと感じていた。
「では、会えるのを楽しみに。――シャーロット」
そう言って、男は電話を切った。
「ワイズマンの旦那、給油が終わりましたぜ」
その男――ホレス・ワイズマンはトレーラーの運転手に頷きかけ、ボルグヴァルドの運転席に乗り込んだ。
バンクロフト家に電話が繋がらなくなったことを知った時、ホレスの行動は早かった。奇妙な胸騒ぎがしたからだ。
身辺調査をされているのか、自宅のゴミを持ち去られたことがあった。ヘイヴンでは、救援作業員に混じって、どこか作業員には似つかわしくない眼光が鋭く周囲の様子を注意深く観察している様子の男も見受けられた。
それらはその時には見過ごしていたことだったが、いざ再びの災害となるとなにか重苦しい出来事の予兆として感じられるようになったのだった。
ホレスは郡の警察や消防、レスキューに連絡をし、自身もただちに知り合いの医者と共に現地を訪れた。立ちふさがる土砂を前に、現地で夜を明かした。
夜を徹した突貫作業によって往来が可能となるや否やヘイヴンに踏み込んだ彼らが見たのは、凄絶な光景だった。
陰惨な私刑に放火。略奪に暴行。木立の大木からは屍体がぶら下がり、空を黒雲のように被う鴉がついばんでいた。
混沌としたその様を、ホレスは一々克明には覚えてはいない。ただ、地獄のような混乱の中を一心にバンクロフト家を目指したのだった。そこも暴徒の襲撃を受けていたが、猟銃を構えた使用人のだが決然とした意志によって彼らは辛うじて駆逐された。
それでも、ホレスたちが駆けつけるのが幾分遅かったなら、更なる混乱がどのような被害をもたらしていたか定かではない。
ホレスはその時結局、ヒューバート・バンクロフトの娘、シャーロットと会うことはできなかった。その使用人、マーティンから彼女が無事であること、しかしヒューバートは帰らぬ人となったことを告げられた。
遺体を連れ帰ったという彼女の体調や精神状態は酷く、安静を要するというのが面会を謝絶された理由だった。
ホレスはヒューバート・バンクロフトの倉庫に保管されてあった作品と、硝子の温室の中に安置された数々の大理石の彫像の無事を確認した。
ヒューバートの死は胸塞ぐ事実だったが、なによりその遺したものを守る義務がある。それはホレスの職業的な使命であると同時に、ヒューバート個人との誓いでもあったからだ。
――それから、数週間が過ぎた。
ホレスは数々の事務的な作業や実際的な交渉にひたすら追われていた。
ヒューバートは自分が不慮の事故で亡くなる時のことを常に考えていた男だった。それほど、遺される娘のことが心配だったのだろう。彼とその妻の死によって、莫大といっていい額の保険金がシャーロットの手元には渡ることになっていた。
問題は、彼の遺体が発見されなかったことだ。
保険会社の調査員が現地を訪れ、血痕が染みついた土壌を採取し様々な証拠品を検分した。ホレスは彼らの送る膨大な資料に目を通しながら、自身も調査員と弁護士を雇った。
保険会社とは、主に保健の特約事項の解釈を巡ってこれから裁判が待っていた。
一方で、ヘイヴンの町を引き払うヒューバートの娘のために、様々な手続きの労を請け負っていた。
ヒューバートは、近年ケープコッドに土地を購入していた。彼はそこに移り住むつもりだったのだろうか、とホレスは今では思う。
ヒューバートとそこにある友人の別荘を訪ねた時の夏の陽射しを、そして娘とのバカンスの思い出を楽しげに語る彼の横顔を眩しげな眼差しで思い出していた。
「ヒューバート、安らかに」
魂の帰る場所が、あのような安らぎに満ちた場所であることを願いながら、ホレスはヘイヴンへと続く山道を登っていった。
――――――
――――――――――――
――十三年後
大理石の床を滑るように光沢のある黒い影が流れ、カツ、カツ、と硬質な音を立てる。
折り目正しくスーツを身に纏ったその男は、展示室に置かれた造型作品の前で佇む少女に近づいていった。少女の傍らには少年が屈み込み、作品に手を伸ばしている。
「……まったく。イングリッド、その作品は君が鑑賞するにはまだ早い」
ホレス・ワイズマンは作品を眺める娘を嗜めるように言い、そこから連れ出そうと肩に手を置いた。
「だって――」と茶色の巻き毛を揺らし、少女は唇を尖らせる。
「バートが見たいって言うんだもん」
参ったな、とホレスは天蓋を仰いだ。少女の隣に屈み込んだ少年は好奇心に目を輝かせながら、“柱”の群れの一つに手を触れていた。
「バートランド、君、まだ十二――もうじき十三だったか? 君だってあまり見ちゃいけない」
いくらそれが君の祖父の作品でも――とその言葉は不明瞭な響きで発せられた。
祖父――本当にそうだろうか。意識にまで昇らせることを拒む疑問が、彼の言葉を濁らせる。それはホレスにとってひもとくべきでないリドルだった。
「ホレス――」深い色の瞳で彼を仰ぎ見る少年の貌は――ヒューバートに瓜二つだったからだ。
「これ、俺が産まれる前に作られた作品だよね」
あたりまえだろう、とホレスは告げる。少なくとも、その中の二本を除いては、確実にそのはずだった。
「なんでママ、下着履いてないのかな」
なんだって? その言葉に耳を疑い、ホレスは顔を蹙めた。
全寮制の私立学校で身につける、隙一つ感じられないほど整った学生服。“少女”は背筋を伸ばし、凛とした佇まいで立っている。その周囲を、各々に形の異なった数多くのディルドが包囲するように立ち並んでいた。
『要塞の攻囲 - The Siege of Charlotte -』
あるいは、『破城槌の群 - Battering Rams -』。
それは、ヒューバート・バンクロフトの遺作だった。
あの陰惨な事件の後、地下作業場に保管されていた塑像とディルドの原型や型、ヒューバートの創作メモ等を元に弟子達によってあるべき姿に構成されたものだった。
塑像を元に型が作られ、弟子達がブロンズ像に鋳造した。ディルドにはそれぞれ名前があるらしく、メモにある通りに配置していった。
メモ書きには、あと三種ほどのディルドの制作が予定されていたようだったが、それらは未完成だった。
娘を持つ父親の不安感を、あるいは成長する少女の欲望を表現していると解釈されたその作品は、当然のように物議を醸した。それが公の場で公開されるまでには、制作から少なからぬ時間の経過が必要とされた。
それにしても――とホレスは思う。その作品はセンセーショナルであったばかりでなく奇妙に印象に残るいくつかのエピソードが付随していた。
中央部付近の、元となるディルドにはそれぞれ名前が定められており、しかもそれらのほとんどが皆事件で死亡したか行方不明となった人たちだった。
さらに、元々予定されていた三種の原型のうち二つは、事件から五年後、実家で発見されたとシャーロットの手で持ち込まれた。それだけ時間が経ってから発見されたというのは奇妙なことだった。
それらは、他のものと比べるとほんの僅かに洗練を欠いた作りで、ホレスはその真贋を内心疑ったものだ。だが、ややたどたどしい字で綴られたイニシャル、『H.D』と『N.M』はヒューバートのメモ書きの内容と一致し、作風もよく観察すればヒューバート本人のものとほぼ断定して申し分なかった。
そして――
目の前の少年が言うように、おびただしい数のディルドによって攻囲されている少女のブロンズ像は、隙一つない装いを見せながら下着を身につけてはいなかったのだ。そのスカートの中の事実は、ディルドの群れを飛び越え彼女の足下から覗き込んだ者しか知る由もないことだったが。
彼女の秘められた場所には、ただそれが唯一の防壁でもあるかのように淡い翳りが存在するのみだった。
ヒューバートがなぜそのような“装い”としたのか、ホレスには想像もつかなかった。ただ、目の前の少年に疑問をぶつけようと言葉を開きかける。
「なあ、なんでそんなことを――」
やにわに、少年は少し顔を蹙め立ち上がった。
「んー ママが呼んでる」
「え? ああ、おい……」
唖然とその後ろ姿を見送る。なぜ知ってるんだ、その問いはホレスの口から掻き消えていた。彼を振り返った少年の深い色の瞳は、照明に照らし出され一瞬だけ琥珀色の輝きを帯び――その色彩に気を取られていた刹那に。
「じゃーねー イングリッド。ホレス。また!」
敏捷な影が撥ねるように、廊下の奥へと吸い込まれていった。
――――――
――――――――――――
海沿いを、珊瑚のような白皙の欠片が滑ってゆく。
純白のロメッシュのハンドルを握るのは、黒い手袋に包まれたたおやかな指先。
少年は軽やかな声で唄う。
――Like a virgin
――When your heart beats ……Next to mine
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